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このところ、「あそび」「あそぶ」がテーマになっている。
神遊び
祀り・祭り、神楽、雅楽、能、舞、浄瑠璃、、、
神事、古典芸能などがそもそもそのように言い表されていたという。
それは、人と神が出会う場所、
そして、魂を鎮めあう、儀式のようなもの。
現代人の遊びとは、かなりかけ離れてしまっているが。
人と八百万が出会い、遊ぶ。
人と八百万が出会う場所。
それは、狭間の世界。
あらゆる異次元・異世界へつながる。
地球のエネルギーの変性が、人間界に影響をおよぼす。
破壊と再生は、どんな時代でも、次元にもあることだが、
なんというか、次元と次元の裂け目が大きくなっているというか、段差が大きくなっているようだ。
人はそれぞれに固有のエネルギーフィールドで生きる。
太陽系にあるスピリットは、地球以外の惑星・恒星や、それ以外にも、よく知られているところで、シリウスやオリオン、プレアデスなどもあるだろう。生まれた時に太陽や月が位置していた星座、いわゆ黄道十二宮からも影響を受けている。
それらが地球での魂の成長を促してくれる。
さまざまなエネルギーが集合する器。それが人間。
そして、どのエネルギーラインに強く反応を示すかで、大きな魂グループを見当できる。
魂グループが近いほど、違和感が少なくそばにいることができる。
話を戻そう。
次元と次元の裂け目。
ひとりひとりが固有のエネルギーフィールドを作っている。
人と人が出会い、エネルギーフィールドが交差すると、そこにまた独特なフィールドが作られる。
人と人と人と犬と猫が出会い、エネルギーフィールドが交差すると、そこにまた独特なフィールドが作られる。
作られた独特のエネルギーフィールドは、そこにいる全員を刺激する。
ある種の感情が湧き上がる人、3日前の夕飯を思い出す人、体が急にダルくなる人、連れていた犬が吠え出して、猫は寝た。
と、直後の反応は、人も犬もさまさま。
地球で、これらのことは当たり前のことだ。
さまざまなエネルギーがシンクロし、魂の課題が進んでいくようになっている。
エネルギーのシンクロニシティに、このところ、ある特徴がみられる。
フィールドとフィールドが緩やかに交差するのではなく、ガクッガクッと階段を3段抜かししたような、大きな段差が生じる。
すると、その段差に亀裂のようなものが生じ、本来、自分が受けとるはずではないエネルギーが入ってくる。
まるで、結界が破られたような状態になるのだ。
すると、どうなる?
さまざまなことが考えられる。
反応する必要のないエネルギーが流れ込むので、思考と感情を掻き回され、行動に駆り立てられる。
後から思えば、どうしてあんなことしてしまったのだろう?と、思うかも知れない。
例えば、今生では平々凡々と一市民を生きるはずが、裂け目にハマり込み、そこにあったエネルギーフィールドに刺激され、過去生との境界の扉が開き、解放されていないエネルギーは憎しみへと転嫁され、事件をおこす。
予定では、もう少し後で、その扉は開き、もう少し緩やかに波動の重いエネルギーは解放されるはずだったのだが。
また、すでに異世界との扉は閉じられ、この世界で人間として経験をつむ予定になっていたが、裂け目にハマり込み、見えるはずのないものから手招きされ、ついて行ったら、人間界からはみ出すことになった。
地球に来たばかりの魂が、すぐにまた帰ってしまった!
これらは、はるか昔、宇宙での出来事が影響をしているともいえる。
さらには、過去に地球でおこった悲劇的な出来事も、そこに加味されている。
宇宙のカルマ・太陽系のカルマ・地球の、人の・・・と、さまざまな課題が糸のように織り込まれ、
それがどんどん重くなり、広くなり、
人として現れてはいけない勢力を引き出してしまった。
それらは、地下組織的に勢力を拡大し、人の想念をコントロールする。
そこに、意図せずそこに力を与え合うのは、人の想念に影響された地の氣。
八百万の神々だ。
人が千差万別であるように、八百万もまた多種多様だ。偉大なスピリットもあれば、人生に害を及ぼすものもある。
人と八百万の縁もまた、人と人の縁と同じようなもの。
前の記事に書いたが、特定の信仰をもたない民族である日本人にとって、「神さま」というと、八百万を指すことが多い。
「神」という言葉のエネルギーは強い、また、破壊的でもある。
言葉だけで人を支配することができるのではないかと思うこともある。
だが、留意しなければならない。
人と八百万が出会ったとき、その瞬間のエネルギーフィールドによっては、裂け目が大きくなるかもしれない。
そして、八百万ともども、そのフィールドに囚われ、支配されるかもしれないことを。
その状態をみるにつけ、どう表現したものかと思っていたが、
次の文章がそれを的確に表していると思った。
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日本の神の源流をたどってみると、西洋の神にみるような意志をもち人格をそなえた存在からははなはだ遠いものをカミと呼んでいることを知る。本居宣長は「可畏きもの」をカミと言った(「古事記伝」)。この定義はみごとなもので、これ以上に日本の神の本質をいい当てたものはない。「日本書紀」は「可畏きもの」の例として、虎、狼、蛇を揚げているが、畏怖の情を与えるものはもとよりそれにとどまらない。意志もなく、人格もなく、空中を浮遊しているような、眼に見えない精霊も「可畏きもの」の仲間であり、それらの中には、格別の善意や悪意のためというわけでもなく、人に付着して幸いをもたらすものもあれば、害をあたえるものもあった。
たとえばカゼは古代に妖怪の一種と思われていた。九州では山野を歩いていて、急に寒気がしたり、頭痛を覚えたりして、病気に罹ると、それはカゼに会ったからだという。それを「トオリミサキ」に行きあった」とか「ミサキカゼ」にあったという場合もある。ミサキは御先の意で、神を先導する役である。
〜
ミサキは、しかしいつしか、大きな神のもとからはなれ、祀る者のない、さまよえる精霊として山野に行きあう人にタタリをするようになる。挙句の果てには、不慮の死を遂げた死者の霊もミサキとして恐れられ、供え物をし、祀ったりするようになった。
これは小さいながらも荒ぶる神で、やがて神社に祀るようになったが、「梁塵秘抄」に「うしとらみさき(艮御先)はおそろしや」とうたわれるように、人びとに畏怖させた。
〜
しかし神は原初的には祖霊、死霊、妖怪の三者とも区別のつかぬ存在でもあった。
(「日本の神々」谷川健一著より)
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21世紀の時代に、非科学的・非論理的であることは十分承知しているが、これまでの人生経験が、上述した内容がしっくりと入ってくる。
小さい頃から八百万・精霊たちは身近であった。妖怪も。
なぜなら、人の重苦しい想念が、邪霊たちを呼び寄せ、力を与え、妖や鬼になるのだろう。
最初から妖や鬼はいなかった。人間がそう・・・なっていった。
妖や鬼との関係にもパターンがある。
妖が人に憑依する場合。
さらに進めば、喰らわれ、自分が妖になっていく場合。
人間界の混乱は、八百万や精霊たちの混乱も引き起こす。
この世界の不幸な出来事の多くには、それらが多く関わっている。
かといって、極端に怖がることも、忌むこともない。
親分・子分になることもない。
愛ある関係が好ましい。
狭間の世界では、多種多様なスピリットがいる。
そして、私が地に足が着かず、地球に居場所を探している間、私が弱々しい間、波動の低いものたちが寄ってきていた。
だから、いつも得体の知れない強さを抱えていた。
しかし、私のエネルギーフィールドが変性するにつれ、変化していった。
縁のある八百万や精霊は変性し、それ以外の波動の低いものたちは寄りつくことができなくなった。
結局のところ、こちらのエネルギー状態によって、引き寄せが変わる。
それは、人も、八百万も同じことなのだ。
ところで、
荒ぶる神ゆえ、永らく鎮まる八百万もいる。
今はまだ、いたずらに寝た子を起こすことはない。
必要あらば、父なる大宇宙が動き、
母なる地球がそれに応えるだろう。
一方を揺り動かすなら、
天と地の調和は乱れ、
衝撃は界を超える。
次の地球か、その次の地球になるくらいには、
人間も八百万も、それぞれの道を通り、
統合へと向かう。
その数がぐんと増えるだろう。
どちら様も、「聖なる愛」の印をもって、
そこを通過することになる。
サナンダG 聖なる愛の魂グループ。
裂け目をつなぐ。
天と地の調和を祈る。