八百万(ヤオヨロズ) 鶴岡八幡宮 鎌倉 そこはどこへ通じる?

2018.3.27  Chikako Natsui
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昨日は久しぶりに鎌倉へ。

訪れたのは、
鎌倉といえば、鶴岡八幡宮!
まずね。

ご祭神
応神天皇
比売神
神功皇后

ご由緒
当宮は1063年源頼義が奥州を平定して
鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に
際してご加護を祈願した京都の
石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に
お祀りしたのが始まり。
(鶴岡八幡宮HPより)

ご参拝を済ませた後は、
引き寄せられるように、
鶴岡八幡宮裏にある大臣山の
入り口付近へ。

大臣山の山頂には
「明治天皇閲兵之處」の碑があり、
そこに続く道は神域とされ、
立ち入り禁止になっている。

山頂から霊気が流れて来るのを
感じる。

「この山は八百万が鎮座している」

そう瞬間的に思った。

残念なことに、神域のために
入ることはできない。

入り口にたたずみ、霊気を堪能する。

ふと目を先にやると、カラス。

神の使いであり、鳥居の役割をしている。

その領域に立ち入ることができるのなら、
このカラスが神に侵入の是非を問う役割
なのだろう。

「こーゆーやつが来たけど、
入れていいでしょうか?」と。

多くの観光客は、その入り口に
目をやることもなく通り過ぎる。

ガイドブックや他者の感想などを
参考に思考の中で参拝をしているのかも
しれない。

ホントウは裏側になる。

鶴岡八幡宮のホントウも、
きらびやかな場所や
目立つところにではなく、
裏とか横っちょとかにある。

気の流れが・・・違う。

ほぼ1日鎌倉で過ごし、
帰宅しながら、意識が変わっていく・・。

ん? なんだろ・・な。

鎌倉にいた時は、何かにすっぽりと
囲まれていたような気持ちになっていた。

なんだろ・・・?

「境界」

ふと以前読んだ本を思いだした。

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「境界の発生」講談社文庫より

死後の世界がたしかな実在(もの)として
存在したとき、生/死は
くっきり分節化されていた。
現世/他界を往還することが
可能であると信じられた古代、
生/死を分かち繋(つな)げる境界は、
黄泉比良坂(よもひらさか)とよばれた。
坂が現世/他界を、生/死を
仕切る境界であった。
この坂(=〈さか〉い)の向こう側に、
死者たちの世界=黄泉(よみ)の国が
ひろがっていた。
ひとたび死んだ者が息を吹きかえすことを、
甦(よみがえ)ると称したのは、
むろんそのためである。

鎌倉のはずれにはいまも境界が
生々しく露出している。
そんな言い方をすれば、
きっとあなたは訝(いぶか)しげに首を
かしげるだろう。 境界とはとりあえず、
内部(うち)/外部(そと)を
分割する仕切り線である。
〈周縁〉は漠然と境界のあたりを
さす言葉である、と了解してほしい。

あなたとわたしはたぶん、
かぎりなく境界の曖昧な時代を生きている。
人間やモノや場所がくっきりとした
輪郭をもちえない時代、と言いかえてもよい。
たとえば、かつて村や町のはずれの辻や
峠・橋のたもとには道祖神がたち、
こちら/あちらを分かつ標識をなしていた。
そこは、村落の内/外をしきる境界、
ときには生者たちの世界(現世)/
死者たちの世界(他界)をへだてる
境界でもあった。
しかし、そうした目に見える境界標識は
一つひとつ、わたしたちの周囲から
消えてゆき、それにつれて、
境界のおびる豊かな意味を
身体レヴェルで感受する能力もまた、
確実に衰弱していった。

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鎌倉という土地そのものが、
他とは違うエネルギーを
もっている。

昨日の感覚が・・・
う〜んと・・体験を
感じたことを言葉で表すのが
非常に難しいのだが・・・。

やることなすこと、
出会う人、話すこと・・
何から何までスムーズに
進んでいく。

何か夢の中にいるような
気にさえなっていた。

気分は高揚し、
これまで忘れていたようなことまで
思い出させられた。

「境界の発生」を読むと
怖さを感じる人もあるかもしれないが、
「死」とは、再生のエネルギーでもある。

これまでの流れがガラッと変わる。

なるほど。

幕府が開かれる場所、
政がなされる場所というのは、
特別なエネルギーがあるのだろう・・か。

鎌倉。

そこは、異界、異次元へと
通じる特別な場所なのかと、
不思議な感覚を味わった。