宇宙神子! フォースとともにあれ 2 神を憎み 神を愛した過去生

2020.4.22  Chikako Natsui
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キリスト教ですか?

 

いえ、違います。

無宗教です。

 

 

しかし、よくよく自分自身の内側をみてみれば、「神」に対する想いは複雑のように思える。

いくつかの過去生で経験した不協和音。特定の信仰をもたないこの国に転生することで、統合を経験するのだろう。

 

昨日の記事の続き。

 

変容。

次の扉を開く前、フロアをつなぐ階段の踊り場で、わたしはここ数年のことを振り返った。

 

大宇宙へと還る旅。

魂のトレーニング。

 

それに尽きる時間だった。

 

いまも続く夜中のテレパシーによるトレーニング。

姿もみえず、理解できる言葉ではないが、モワンモワンと脳のなかになにかが広がっている。

集中すれば言葉に変換できるかもしれないが、寝ているのか起きているのか、意識と無意識のはざま、ひと的意識、思考が動かない変性意識の状態でそれは行われる。

高い次元のエネルギーになればなるほど言葉にはなりにくい。そのことを意味する、置き換える言葉がこの世界に見当たらないのだ。

 

3年。

1週間単位で小さなアセンションを繰り返していた。途中ポイントとなる大きなアセンション、変容がやってきた。

3年前の自分。2年前の自分。1年前の自分。

意識がまったく変わった。現象が変わった。おきていることの霊的な意味を理解するようになった。

 

これまでの自分がどんどん小さくなっていっているような、意識が誰かとすり替わっているような気がした。

 

 

昨年末からだろうか。

この世界へおりてくるエネルギーが変わったような気がしていた。

じゃんじゃんばらばらと複数のエネルギーの存在を感じ、入れ替わり立ち代わりやってきていた。そしてどんどんと記事・ブログを書かせられた。自宅にいるとき、電車のなかでも、寝ているときにもそれは続いていた。

また瞑想中、変性意識状態で受けとる宇宙エネルギー、身体を突き抜けるエネルギーの強烈さともリンクし、精神錯乱しそうだと何度か恐れを感じたこともあった。

 

受けとる高次元のエネルギーが大きいほどに、強いほどに、霊体が次元を上げようとする。

だが、ひと的意識が付いていかない。

なぜなら、幽体にある解放されていないネガティブエネルギーが影響する。

中途半端な霊的成長。

 

魂の本質は、つなぐこと。

大宇宙の、神のエネルギーをこの世界へつなぐことだった。

 

ひととして生き、経験し、学んだ。それは主に感情のことだった。
ひとの声を聴き、言葉を理解し、エネルギーをシンクロした。
自分を知り、他者を知り、ひとの世を知った。

ひとつの学びがある段階へ到達したのか、次の学びがやってきた。

高い次元のエネルギーとシンクロし、それをこの世界へと解き放つ。

ひとのエネルギーと高い次元のエネルギーの違いを理解するレッスン。

高い次元からのメッセージを受けとり、それを表現する。

高い次元からのメッセージを受けとり、それを信じ、自分を信じ、行動すること。

 

見えない世界からの呼びかけに、応える。

 

それには、自分を信じることが必要だった。

 

見えざる世界のエネルギーとシンクロし、応え、表現してきた。

その間にも、幽体にあるエネルギーを解放し続けた。

 

しかし、ひとつだけなかなか手放しにくいエネルギーがあった。

 

傷ついたひと、悲しみにくれるひと、恐れを抱いて立ち止まっているひとに対する想い。

 

ダメなのか?と疑問に思われるかたもいるだろうか。

その想いがわたしの傷から出発しているものなら純粋なものではなくなる。

 

それは、過去生から続くわたしのうちに残るエネルギーだった。

そのエネルギーがひと的意識にわたしを止め、幽体が解放できず、周波数が上がらず、霊的な成長を阻んでいた。

 

わたしのうちに傷がある。そこから生じる感情があると、しっかりと把握しているため、セッションを始め、対ひとの関係性で邪魔をすることはない。だが霊的成長を緩やかにするもの、なによりわたしのうちに不要なエネルギーとしてその存在を感じ続けていた。

そのエネルギーと向き合うも、目的のものはそこに見えているにも関わらず、ひととしての意識、これまでの生き方のくせで、解放できないでいた。

少々自分に対してイラつきのあった1ヶ月ほど。

 

しかし、その時はやってきたの・・・だろう。

実感はない。

これをやったら解放できた。このとき、この瞬間、この行動によって変わったという具体的に説明はできないのだが、確かに、わたしのうちに長いことあった不要なエネルギーが無くなっていた。

 

繰り返すが、自分の傷から生じた想いは、純粋な他者への想いではない。
自分のうちに悲しさがあると、目の前のひとの悲しみとシンクロし、自分も悲しくなってしまう。
結果、両者の波動は落ち、心理的にも、霊的にも良い方向には向かわない。

 

大宇宙のエネルギーは、プラスにもマイナスにも片寄ることのないものだ。
純粋なエネルギー、光であり、愛なのだ。
エネルギー純度を保ったままにこの世界へ放出するため、媒介者のエネルギーも純粋にしておく。

この魂が何をするかといえば、大宇宙のエネルギーを媒介することが大きな目的なのだから。

その意味での、「自分を失くす」なのだ。

これまでの自分だと思っていたものをすべて手放す。価値観を0に戻す。
そうして初めて、大宇宙のエネルギーを純粋につなぐことができるのだ。

魂の本質。ある段階になれば「自分を手放す」はやってくる。
ひとによっては今生かもしれないし、来世、さ来世、またはずっとずっと先かもしれない。

それはやってくるのだ。

そして、高次元の愛、大宇宙の愛の片鱗を知ることになる。

 

前の記事にも書いたが、聖なる道は抜け道、早道、エスケープはほぼない。

そこまでたどり着くために、スタートライン以前ならば課題をたんまり溜め込む覚悟で邪道に蛇道を選ぶこともあるかもしれない。

魂はそのエネルギーをマスターするために転生を繰り返しているので、エスケープすることは過程を経験できないので、魂からするなら転生の意味が無くなってしまうのだ。

ただ、以前の時代に比べたなら、地球が変容し、エネルギーも変わってきているので、少しは楽に学びを進められるように思う。

 

さて、不要なエネルギーを解放した後からだろうか。

キリスト意識がやってきて、そして、神なる光線をちょくちょく見かけるようになった。

 

ところでキリストのエネルギーとはなんだろうか?

それこそが、このサイトのタイトルなのだと、今さらながら気づいた。

この宇宙をひとつへと導く。

聖なる愛の光のエネルギーなのだ。

 

 

冒頭のところで、わたしの「神」に対する想いは複雑だと記した。

この生で、キリスト教を含め、何かの教義を信仰していないのに、どうしてそう思うのか?
自分でも不思議な感覚だった。

うちなる旅をし続け、これは過去生からやってくる感情なのだと気づいた。

パラレルワールド。

いまにありながら、エネルギー体を介し、過去の自分を再体験する。

 

だれかが告げる。

 

そろそろ神を統合するときがきたのでは?

 

なるほど。わたしのうちなる神たちを統合し、さらに大宇宙へと統合するときがやってきた。

 

過去生でのわたしが神に対して抱いた想いは、次の2つの歌で表現される。

神から与えられた使命を果たさなけれならない。
だが、それはその当時ひとであったわたしの思い込みであり、感情に翻弄され、低位の神への愛だったのかもしれない。

神は愛であろう。だがそれは、権力者たちがいいように作りかえられた。
苦しさや恐れからみた神の愛はイリュージョンだった。

目の前の神と内なる神が、魂が知っている神が一致しない。

不安、恐れ、戸惑い。何を信じていいのか分からなくなった。

神の言いつけを守って、いま、ここに立っているはずなのに、見捨てられたような感覚がある。

大宇宙の真の愛を理解できなでいた。

神を愛し、神を憎む。

だが結局は、ひと的意識が納得せずとも、やってくる時はやってくる。

この部分の歌詞が魂を刺激した。

「世界中敵に回したとしても 神に与えられた使命なら 果たそう
ためらわずに進めよ 疑わずに行けよ 誇り高く飛び込もう 炎へ』
(宝塚歌劇「スカーレットピンパーネル」より 「炎の中へ」)

 

 

モーゼは挑んだ エジプト脱出 その時海が割れ 道が出来た
いかなる時でも あらゆるところに そびえ立つ山 深い谷がある
嵐の海でも 密林の奥も 踏み進めば いつか道は見える 闇の中 危険を顧みずに
決して諦めず 戦い抜こう 恐れに震えることもあるだろう 友よ
だが闘志だけは失くしてはならぬ 友よ ためらわずに進めよ 疑わず行けよ
誇り高く飛び込もう 炎へ
行く手も退路も 塞がれたなら 臆せず走り 敵陣を突破
恐怖を捨て去り 振り返らずに 炎の中人を助けるのだ

世界中敵に回したとしても 神に与えられた使命なら 果たそう
ためらわずに進めよ 疑わずに行けよ 誇り高く飛び込もう 炎へ

稲妻よ脅かすがいい 恐怖など吹き飛ばすぞ 荒波を乗り越え渡る 漕ぎ出そう炎の海
世界中敵に回したとしても 神に与えられた使命なら 果たそう
ためらわずに進めよ 疑わずに行けよ 誇り高く飛び込もう 炎へ 炎の中へ
(宝塚歌劇「スカーレットピンパーネル」より 「炎の中へ」)

 

 

異国に囚われ 祖国の人々に疎まれ それでも私は嘘はつけない
誰かが言った 神は愛なのだと 愛ゆえ人は戦うと
私は答える 騙されはしないと そんな言葉はごまかしと
だれがどう言おうと 私は嘘がつけない ひたすらこの真実を
世界に向けて叫びつづける

戦いは

新たな戦いを生むだけ
(宝塚歌劇「王家に捧ぐ歌」より「アイーダの信念)