フォースとともにあれ! 祈りを手放し 祈りになる

2022.6.10  Chikako Natsui
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誰かがいるから、私は、「なにか」になった。

誰かがいないなら、私は、「私」だった。

 

それが、

 

誰かがいても、私は、「私」になって、

 

やがて、

 

誰かがいても、私は、「わたし」であるのだ。

 

人意識から魂意識へ

そして、グループ意識へ

 

 

 

太陽が春分点を超えたあたりからだろうか。

自分が、また、なにか、変わったようだ。

少し前と意識が少し違う。

それ以前から兆候は少しずつあった。次の扉が見え隠れしていたからだ。

道を進むこと分かっているが、若干の躊躇がある。

 

この躊躇はなんだ?

正体が見えぬまま、プールの中の渦巻く水に身を浸したような状態で、時は過ぎる。

 

躓こうが転ぼうが、自分が傷つこうが傷つかまいが、時にジタバタ、時にじっくり、地道に、ガンガン扉を開けてきた。

それが魂の設定であり、この生で構築した性格ともリンクする。

そして、目標が分かっているような分かっていないような時でも、止まらなかった。

それはできるところから解答し、分からないところは後回しといった受験スタイルと同じように、人生のあるところまでは前世の復習で、取りこぼし箇所の再取得しているにも思えた。

だから、馴染みがあって、うっすら結果が分かっていた。

大宇宙のパターン。

 

地球に転生したことの目的のひとつは、まさにこれ!

トレーニングと試験。

大宇宙のパターンを小宇宙に見いだす。

 

しかし、この春先から魂が、これまで分け入ったことの無い暗い森、はたまた誰もいない砂漠に分け入ったような感覚があった。

かといって、古い魂は便利なところもあって、魂迷中でも、これまでの経験を応用しながらやり過ごせる。

 

誰かの前では、「なにか」になって、

ひとりの時は、魂のか細い光を頼りに暗闇を彷徨っていた。

暗闇という方がカッコいいが、どんより曇り空。太陽は厚い雲に覆われて、どっちつかずの空模様。

余計にイライラする。

答えは分かっていたはずだが、大宇宙はそれは正解では無いといっているようで、ヒヤヒヤと不安になった。

 

その先に一筋の道があることは知っている。いずれ、一本の道が見えてくることも知っている。

 

でも、見えてこない。

 

無理やり正解を探す必要はないし、無駄なことも知っている。

近道したつもりがドツボにハマり、いい加減が見つけられなければ、後からやり直しか補習は目に見えている。

大宇宙はその魂の進化の度合いでしか、秘密は開示されない。

それは、黒の道をいく魂に秘するためでもある。

ゆえに、大宇宙の高レベルな情報にアクセスするには、人は、純粋なエネルギー体となり、無私無欲な状態を求められる。

それを成すため、魂は転生を繰り返し、人生を通してエネルギー体を浄める。

 

気づいた。

少し前からだろうか、導き手が鳴りを潜めている。

消えたわけでも、居なくなったわけでもない。

相変わらずメッセージは響いている。

だが、それまであった存在感が感じられない。

 

一瞬の恐怖が襲う。

産まれてこの方、守られていた。

わたしの霊性が閉じていた時でも、感じられていた。

 

なんだろう、この感覚。

この人生には無かったような感じだ。

どんな時もあったものが、無い!

 

瞑想

瞑想

感じる

感じる

みる

みる

聴く

聴く

・・・・・

 

そして、理解した。

 

これは、魂と一体化していく過程だ。

 

魂=スピリット・ガイドはわたしの外にいた。

導き手の存在が別個のエネルギーとして感じられていた。

大概は人的意識にあって、ある場面、特定の場面にあって魂意識が優位に立つ。

意識が上にいったり、下にいったり。

当然、波動の乱れは生じるし、心身が不安定になることもある。

 

しかし、今、わたしがいるのは、真っ白な部屋。

そこには、3人のわたしがいる。

一方の扉は開き、

もう一方は閉じていた。

 

過渡期には、わたしの身体を通して難しい感覚を伝えてくる。

 

胃のあたりになんとなくスッキリしないものを抱え、関西神旅&ライトワークへ出発した。

 

初日は、特に予定を立てていなかった。足の向くまま氣の向くままとホテルに近い周辺を巡った。

大きな観光地ではない神社仏閣ばかりに参っていたのは、魂意識が成すことだ。

人的意識は戸惑う。

 

だが、六角堂の本堂で参っていた時、それは聴こえた。

 

「祈りの魂」

「慈悲」

 

そうだった。魂迷中。

「祈り」が分からなくなっていた。

 

祈りとはなんなのだろう?

言葉を調べれば、意味は出てくる。頭で理解することは容易い。

だが、魂は納得していないようで、感情と感覚を通してそれを伝えてくる。

 

言葉と感覚と想いがチグハグするような。

魂と感情と思考がバラバラのような。

 

祈り

 

祈る それは、外の対象にエネルギーを向けること。

いや、違う。これはそうではない。

 

では、外の対象を内にいれる。同化する。内なる神とよくいうが。

いや、違う。これもそうではない。

 

 

分からない!

 

 

「祈りの魂」

もう一度、頭の中で反芻する。

 

ハッとした。

言葉と感覚が一致した瞬間が訪れた。

 

祈り = わたし

 

それを細かく説明することはできない。

魂がそうであるから。としか言いようが無いのだが。

 

わたしは、祈りだった。

 

さらに、祈誓。

おもむろに、そのような言葉が放たれた。

 

祈りを手放し、

祈りになる。

 

これまでは、人としての祈り。

これからは、祈りそのものに。

 

そこには、慈悲がある。

 

次のトレーニングはそれだと言わんばかりのメッセージを、次の日の朝方、起きがけに響きわたる。

 

・・・・・・

 

折しも、その日は鞍馬山でのウエサク祭の日。

人類の平和と目醒めを祈る。

天地が大きくつながる朝だった。