立場や役割がそのひとの輪郭となる!

2019.3.9  Chikako Natsui
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この世界は、魂の研修所、実験場、ホームスティ、就学旅行、遠足、ステージ、運動場・・・。

「とある人生」「とある場所」で様々なことを経験し、課題をこなす。

なんのために生まれたかといえば、魂を生きるため、魂を成長させるため。

この次元、この世界を二極化し、あっちの極み、こっちの極みの役割、立場を経験する過程に気づきがある。

 

魂は輪廻転生を繰り返し、それぞれの役割を経験する。

ある時は、問題を抱えた生徒。ある時は病弱な母親。
ある時はアラブの大富豪。ある時はダウンタウンのホームレス。ある時は王様。ある時は下働きの料理人。

魂はいろんな役割やポジションを経験したい。

それによって何を感じ、考え、学び、気づく、手放すのか。そのためにこの世界へやってきた。

親に褒めてもらったことが嬉しくて将来の仕事を決めたり、先生に○のお墨付きをもらって自信をつけたり、したとなったものは、依存と認知で作られていた輪郭で、ある時期まで生きる。
そして、何かきっかけがあり、気づき、そこからホントウの自分になっていく過程を学ぶ。

 

面白いね、この世界!

 

王となれば、威厳に満ちて、

召使いになれば、伏し目がちとなる。

立場や役割が、そのひとの形を作っていく。

 

時の流れの中で、気がつけば、支配するものと、服従するもの。
力あるものと、なきものなど、うえとした、役割と形容詞に隠れた関係性が出来上がった。

うえはエラくなり、したは依存や崇拝、卑屈など、不思議と態度も定義づけされる。

ひとのこころも操る。

 

親子、先生と生徒、上司と部下、光と影、男性と女性など、それは一見、対極や上下になりうる関係・立場・役割。

この世界では、社会的な立場が「うえ」っぽく、「強い」っぽいとされる、権力やお金を「持っている」っぽいひとが、霊的に大きな学びを設定していることが多い。

 

親と子なら、親。

上司と部下なら、上司。

先生と生徒なら、先生。

社会的に「うえ」っぽい担当!

霊的な学びが大きければ、得るものも大きく、場合によっては喪失感も大きい。

そして、この世界に生まれる前に設定した課題を消化するにはもってこいのシチュエーション。

 

例えば親子。

親は子に霊的学び、子は親に現界を学ぶ。

親となることの霊的な側面の学びは、自分のインナーチャイルドとの向き合い、浄化、手放し。
さらに無償の愛を学び。

人間的な側面では、守るものができたことによって、強さを培い、成長を促進する。
それは魂の成長へもリンクする。

子への関わり方。家族というフレーム、親戚、隣近所、学校関係者との付き合い。
その渦中に、もしかしたら、こんなことが苦手な自分がいたとか、子どもや子どもの世界を通して自分の内なる声が聴こえてくるかもしれない。

この世界の常識は、親が子を養育する。食べさせ、着させ、保護する。
社会的にみるなら、年齢も経験値も、お金のかけ方も、親が偉いにきまっているだろう!
だから、子どもは親の言うことを聞いて当然。しつけだ、礼儀だ、マナーだと教え込まれるが。
もちろん、社会を生きていくためにひととおりの礼儀やマナーを教えるのは必要だ。
だが、このところ世間でいわれているような、過激、過度なしつけ。どこまでがしつけで、どこからが虐待なのかわからないような行為は、子どもも親も、肉体、こころ、魂が傷つく。

子どもと親は、光と影。子どもがこの世界で傷つけば、親もまた一緒。

子どもが生まれて親は万々歳!生まれてくれてありがとう!私たちを親にしてくれてありがとう!と、なるはずが・・・。親も人間。自分の成長過程によっては、なかなか理想的に子どもを愛せない。
虐待をする親であっても、深いところでは、本当は可愛いし、愛したけど、愛せない。どう愛していいのか分からない。表現方法が見つからない。ということもあるかもしれない。

子どもの存在によって、愛に学び、そして悩み、学び、気づき、魂を成長させていく設定をしてきているはずが・・・。

子どもを育ててやっている!子どもは自分のものだ!という考えは高次からするなら、課題の最初のページから突っかかってしまうことになる。

反対に、子であることの学びは、この世界へやってきた課題を浮き彫りにするため。
そのために、あえて選んだ家庭環境。
この両親の元に生まれなければ、いまの自分の価値観や思考、情操、感覚などは培われない。

親は子どもに学び、親になる。

子どもは親に学び、その後の人生を選択する。その選択が本人が幸せと感じるか分からない。魂が喜ぶ経験でも、本人の意識的には辛い学びとなることもあるから。

 

さらに、場所を学校に移そう。

先生と生徒。

一見、先生が教えるひと、生徒は学ぶひとなのだが、この世界では。

しかし、これもまた霊的な見方をするなら、逆ポジション!

先生は生徒に霊的に学び、生徒は先生に現界を生きるための知識を学ぶ。

 

ある時、何かの講座だったと思う。

いく人か、学校の先生が来ていた。その時は、先生ね〜。いまの学校はイジメやらモンスターペアレントなるものがいて大変ね〜などと、最近見た先生のドキュメンタリーを伝える番組を思い出していた。

だが、次の瞬間、先生ってよっぽど学校が好きなんだなとも思った。
なぜなら、ずーっと学校にいるから。自分が生徒であり、その後は先生として学校に勤めている。

そこから、学校の中にいる先生と生徒をイメージした時に、どちらも同じエネルギーを感じた。

生徒は、先生から知識を学び、先生は生徒から、先生になるため学びを経験している。

だから、多くのことを先生に求めてはいけないのかもしれない。

そもそも先生が教えられることは本の中のこと!と、定義つけた方が良いように思う。

昔の時代だったら、「師」という考え方だったのかもしれないが、今の先生は、忙しすぎるし、自分たちも学ぶことややることがたくさんあって、何よりいろんなことの評価が気になる環境おかれている。

本来、書物だけではなく、人間としての成長を促す場が学校なのだろうが、なかなかそうはなりにくいのが今の世の中ではないだろうか。

もちろんすべての先生がそうだとは言わないが。

 

先生と生徒も裏と表。

 

生徒によって先生は成長させてもらっている。それも少々扱いにくい生徒、問題を抱えやすい生徒、そんなクラスをあえてもち、魂の成長をしていく。

 

上司と部下も同じように、部下がいなければ上司にはならない。上司は部下に学ばせてもらっている。
厄介な部下、数字の上がらないチーム、問題の多い部署を束ねる、マネージャーとして、人間的に、共感力、聴く力、自分自身を学び、そして霊的に成長をしていく。

医者と患者。患者がいなければ医者にはならないし、経験もつめない。

国と国民。領土があっても、そこに住むひとがいなければ国家としては成り立たない。

 

 

ほとんどのひとは、見えている世界、現象界で「そうなった」理由を見つけようとする。

しかし、形あるもの、表面的なもの、自分の外の世界だけに意識を向けていたのでは、ホントウは、真理は理解することができない。

 

いま、この世界でなにが起きているのか?

どのようなにそれは起きているのか?

 

両の目だけでは見えないこともある。