この世界の流行り? ○○症 △△障害

2019.1.5  Chikako Natsui
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霊界(高次元)における魂の本質的役割と

現界(三次元・この世界)における役割は違う。

 

多くの魂は、この2つが一致するまで転生を繰り返す。

そして、一致したときにこの世界の経験が終わり、ワンネス。大いなる宇宙へと統合される。

 

魂は様々な生であらゆる役割をこなし、表面的には分かりづらい、ホントウの課題に取り組んでいる。

しかし、この世界での役割に惑い、悩み苦しみ、本質が見えてこないことが多々ある。

私はだれ?
なにするひとぞ?

他者と比較し、この世界にある役割だけに自分をあてはめようとする。

 

現界での役割は、年を重ねるごとにどんどん増えていく。

ひとつの人生で一人が五つ、六つと役割をこなすのは当たり前。

 

しかし、役割が多すぎて、また役割とホントウの自分の境目が分からなくなってしまって、精神的に混乱したりすることがある。

 

誰かの娘や息子、学生、社会人、○○会社の社員、○○部の課長、部長、誰かの夫や妻、お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、■■グループのリーダー、先生、監督、PTAの、趣味の会の、講座の・・・この世界にはあらゆる役割的代名詞がある。

 

そのうち代名詞が先行して、名前を呼ばれなくなったりすることもある。

いつの間にか、自分もそれに慣れすぎて、自分が何者なのかが分からなくなってくる。

 

それは、困った!

役割が多いほど、自分は何者なのだろう?と、混迷する。

自分を失くせば、失くすほど、この世界での役割を欲するのかもしれない。

 

自分を失くしたひとは、慌てて、今度は、自分にラベリングをし始める。

自分でラベルが見つからないときには、他人にそれを貼ってもらおうと必死になる。
過度に親密な人間関係を築いてみたり、属するところを躍起になって探してみたり。

 

役割+ラベリング。

それによって、ますます自分が何者なのかが分からない。

 

役割という大きなコート

ラベリングという厚手のコート

その二枚重ねの中には、縮こまったホントウの自分がいる。

でも、大きく厚いコートの中で自由に身動きできずに息苦しい。

そんなコートを抜いでしまいたいけど、脱ぎ方が分からない。
それに、もし抜いで寒かったら・・・と、嫌な思いはしたくないと、最初から悪いことを想像してしまう。

 

ホントウの自分と役割がくっつきすぎて自分を無くすなかれ、

必要のないラベルは貼るなかれ。

 

ホントウの自分を無くしてしまうと、病気になって「病名」でもいいから自分にラベルが欲しくなる。

この世界のこの頃流行りが、「なんとか障害」「なんとか症」と名前をつけて病気にしたがる。

もちろん、ホントウにホントウの病気もあって、治療が必要な場合、介護やサポートが必要な場合もある。

 

しかし、そうではなく、少しでも他者と違うとか、コミュニケーションが取りにくいとか、社会ルールからハミ出そうものなら、手っ取り早く「なんとか障害」や「なんとか症」とラベリングをしてしまうことが多々ある。

 

自分と違う、他人と違う、比較してはその違いに不安になって、理由を探そうとする。原因を求めようとする。

そして病名を付けては、「そうか、そうか、そうだったか!」「だからあのひとはああいう態度になったのだ」「病気だから仕方ない」と、そんな風に理由付け、意味付けしては、それぞれが納得する。

 

「違い」を「病気」という「ラベル」を付けて納得する。

他者との違いに怯えるひとも、病名をつけられた本人もそれで納得、ホッとする。
困ったことに、病名を付けられた方は、本当に病気になる。その症状になっていく。

言霊。言葉には霊力がある。

誰からから発せられた言葉は、霊力が大きくなり、結果、その通りになっていく。

なんでもなかったひとが、病名を付けられた瞬間に、自分でもそうかもしれない、そうなのだろう、それに違いないと、妄想を重ねることで、その部分のエネルギーがどんどん大きくなり、結果、それが事象として現れる。

少しだけ気分が落ち込んでいるのかもしれない。
他者のエネルギーと自分のエネルギーの境界が分からず、人混みの中が苦手なのかもしれない。
他者の感情や思考を自分のものとなってしまって、他者の人生を生き、ホントウの自分が分からないのかもしれない。

何より、この世界のネガティブなエネルギーが辟易して、居場所、生き方が分からず怯えている宇宙ソウルかもしれない。

ならば、ネガティブエネルギーが蔓延しているこの世界が正常ではないのかもしれない。そこに平然としていられるのは、五感が閉じているのかもしれない。

嫌な場所を嫌と言って、心地良いエネルギーの場を探すのは、当然のことではないだろうか?

しかし、多勢に無勢。

多くのひとがその場で生きられるのだから、その状態で問題少なくいれるのだから、適合できない方がおかしいのだろうと、少数派は病気にさせられるケースの少なくない。

「名は体を表す」という言葉があるが、どんな言葉であっても使い方は注意する必要がある。

それが病名であっても、状態であっても、発せられた言葉には言霊がある。

その言霊を発した魂も受けた魂もその霊力に影響を受ける。

そして役割やラベリングは、ひとの人格をコントロールすることもある。

場合によっては、「そうじゃない」のに「そうなってしまう」ことも多々ある。
ひととひとは鏡同士。
自分の内なる世界を他者に投影し、世界を作る。
不幸なエネルギーは不幸な世界を作り、病気のエネルギーは病気を引き寄せ、そうなる世界をつくっていく。

そして、それはネガティブなエネルギーなれば、魂の周辺に靄がかかり、ホントウの自分とのつながりを切れること可能性もある。

魂の光は弱まる・・・